農業教育資料館は、1902年(明治35年)にわが国最初の高等農林学校として設置された盛岡高等農林学校の本館として、1912年(明治45年)5月に起工し、同年(大正元年)11月にしゅん功しました。
この建物は、青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造二階建ての欧風建築で、校舎をつなぐ渡り廊下が附属していて、当時、一階は校長室、事務室、会議室などに、二階は大講堂として、諸行事に使われていました。
その後、学制改革により岩手大学が設置されてからは、大学本部として1974年(昭和49年)まで使用されました。
老朽化が激しくなったこともあり、一時は取り壊しも検討されましたが、歴史的建造物の修復保存の声があがり、その後修復され1978年(昭和53年)農学部附属農業教育資料館として再活用されることとなりました。
1994年(平成6年)7月12日には国の重要文化財の指定を受け、今日に至っております。
1912年(明治45年)に建設された農業教育資料館は、明治期に設置された国立の専門学校の中心施設のうち、現存する数少ない遺構のひとつで、改造が少なく保存状態も良好であることから、1994年(平成6年)7月12日には国の重要文化財の指定を受け、再度大規模改修が行われ、今日にいたっております。
また、資料館北東に隣接した一角には「ポランの広場(日時計設置)」が併せて造られました。
大正初期の盛岡高等農林学校 | 玉利喜造初代校長 | ||||
館内には、盛岡高等農林学校創立以来の農学部における農学教育や研究に関する資料と宮澤賢治在学中の資料の一部を展示公開しています。
資料展示室には、盛岡高等農林学校時代の教材用標本、図譜類、実験器具、当時の教官の研究業績の一部(鈴木梅太郎博士研究報告、大獄了博士遺品、内田繁太郎博士の笹標本)その他の歴史的資料、卒業生の著書、寄贈図書、専門図書などが展示されています。
また、宮澤賢治関係資料としては、在学当時の「校友会会報」、「注文の多い料理店」、遺言による「国訳妙法蓮華教」などの原本、賢治及び同級生らの得業論文(卒業論文)、「岩手県稗貫郡地質および土性調査報告書」、「アザリア」(一部)、「雨ニモ負ケズ」、恩師関豊太郎宛「手紙」などの複写、賢治全集、写真などがあります。その他関連資料として、玉利喜造校長、関教授の冷害関係研究資料や後年の手帳、賢治に師事した松田甚次郎関係の資料、野鳥標本などがあります。
さらに、近年の資料としては、吉林農業大学関係、岩手大学大学院連合農学研究科の関係資料が展示されております。
宮澤賢治は1915年(大正4年)から1920年(大正9年)の間、盛岡高等農林学校農
学科第二部(後の農芸化学科、現在の農業生命科学科)の本科生および研究生として在籍しました。
賢治は色白で、人を引きつける独特の笑顔のまじめな学生であり、級長、特待生、旗手などをつとめました。また、仏教に関心をもち、短歌などもよくし、文芸同好会(アザリア会)や校友会での活躍を通して、友らとの親交を深め、さらに山野をかけ回っては自然との交感も重ねる学生でした。
大正7年卒業時の宮澤賢治(同級生アルバムより) | |||||||
同人誌「アザリア」は賢治と小菅健吉、保坂嘉内、河本義行が中心となり、大正6年7月1日第1号を出した。
前列左から、小菅、河本、後列左保坂と賢治 |
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学業では地質や土壌学などに興味をもち、その道の権威 関豊太郎教授の教えを受け、同級生と「盛岡付近地質調査報文」、得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ對スル価値」、研究生として「岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」などを残しました。
この師との出会いにより古里稗貫郡の農業環境を良く知る機会となり、それが後に地元農業教師や自ら農民として羅須地人協会や肥料設計などを支える基礎的実学体験として古里定着の拠り所となりました。また師の石灰岩水による酸性土壌改良や冷害克服にかけた願いも、そのまま賢治の願いともなりました。
しかし、実践半ばで倒れ、その果たせなかった願いや夢を作品「グスコーブドリの伝記」に託しました。
関 豊太郎先生
農学科第二部:東京都出身 (在任:明治38年〜大正9年) 地質、土壌学担当 |
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賢治の得業(卒業)論文
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