啄木の妻 堀合節子の生家

 「一握の砂」で一躍天才歌人の名声を博した石川啄木は、賢治の10年ほど先輩で、同好の士と文学論を戦わす若人の間では誰しもが第二の啄木たらんとする気持ちが強かったはずです。ところで、啄木の妻としてやはり若くしてこの世を去る節子(旧姓堀合)の生家は、岩手県岩手郡上田村上田新小路11番地とされています。

 明治20年の「土地台帳写し」や「盛岡高等農林学校敷地変遷図」等の資料に基づき、上田与力小路(植物園南縁市道)を基準にとり正保3年の「武家屋敷割りの定め」にしたがって実測・勘案をおこなったところ、節子の生家は現在の農業資料館正面・温室前通路から温室を含む現広場の一画にあったとほぼ特定できました。

 節子は、父堀合忠操、母トキ(旧姓石井)の第一長女として明治19年(1886年)に生まれました。忠操の父忠行は、南部家の家臣加藤家の出で、同じく家臣堀合家の養子となりました。節子生誕当時、父忠操は岩手郡役所に奉職していました。その後、堀合一家は、節子生誕の3年6ヵ月後の明治23年(1890年)4月、上田新小路から新山小路に移り、そこで20年あまり過ごした後、明治44年に函館に移っています。