宮澤賢治の詠んだヒノキ

年わかき ひのきゆらげば日もうたひ

       碧きそらよりふれる綿ゆき

                  歌稿  大正六年一月より

 賢治の在学当時、農林さん達(学生は町でこう呼ばれていました)は、正門を通らずに南側の通用門から出入りしていました。通用門を入ると東西両側に林木園が広がり、西側の向いに木造二階建ての学生寄宿舎が二棟建っていました。第一、第二寄宿舎が正式名称でしたが、南寮、北寮と呼ばれていました。

 賢治は、林木園に面した南寮の一室に住まうこととなります。「ひのきの歌」は、一月のおそらく学年末の試験期に詠んだものでしょう。ヒノキは細かな鱗片葉をたくさん並べて葉面をつくり、それらが集まって枝葉ユニットを大きく水平に展開します。このため、風にあおられ大きく揺れます。

 盛岡の冬はヒノキにとっては厳しく、林業では岩手以北はヒノキの育たない地方と言われています。幸い、賢治の詠んだ若きヒノキは、百年の星霜を経てみごと大成木となっています。

製材屋さんが捨てるところがないと言うヒノキ