盛岡藩名門、目時家のヒバとスギ

 藩政時代、植物園を含む南一帯は上田三小路として知られていました。上田小路と与力小路は古くは門前町、足軽町、同心町として知られ、上田新小路は嘉永時代に新たに開かれた侍屋敷町です。与力小路は植物園の南縁を、上田新小路はそれと並行して植物園の中央を通っていました。

 盛岡藩家臣諸士の屋敷割りは、間口十三間、奥行二十五間で、約三百坪が基準となっていました。当時目時家の屋敷は、ヒバ(実はサワラ)を生垣とし、美形のスギも整然と並んでいました。初代盛岡市長の目時敬之は本屋敷で生まれ、市長時代にはしばしばここで全職員を招き会合が催されました。広場北に残るカキノキの老大木に、過ぎた日の侍屋敷の庭のたたずまいがうかがえます。

 ヒバ(サワラ)はスギに比べ寒さや積雪に弱いことから、当時盛岡では珍しかったと思われます。ところで、ヒバの樹木呼称は、現在かなり混同して用いられています。林業でヒバと言いえばヒノキアスナロ(青森ヒバで知られる)のことで、園芸分野ではヒノキ科樹木とその変種をヒバと呼んでいるようです。

木曽地方ではヒノキとすみわけ天然分布するサワラ